朝起きて朝ご飯を食べ出勤、昼にお昼ご飯を食べて夕方には夜ご飯を食べて就寝。
毎日決まってほとんどの人は、朝起きて出勤や登校をしますが、いつも不思議に思う事があります。
その疑問は「なんで1日は24時間」何でしょう?
人類の生活習慣は
初期の人類には「時間」と言う概念はありませんでした。
日が昇り目覚めて食事をすると狩りや食物の採取にでかけ、夕方になると住処に帰って食事をして寝る。と言った行動を繰り返していました。
勿論曜日なども無く、1年中その行動は「生きる為」の行動でした。
食事は1日に朝と夕の2食で日中は何度かの休憩時に干し肉や木の実など少しの食べ物を口にするだけだったといいます。
その傾向は江戸時代初期頃まで続き、 中期後半には1日3食の習慣が広がっていきますが、その習慣の要因は「菜種油(行燈などの明かり用の油)」の普及による物と言われ、一番の変化はそれに伴って行動時間が長くなったからなのです。
明るくなったら行動し、日が沈んだら就寝と言った行動が「菜種油」によって夜間も行動できるようになりました。
その為に行動時間が長くなった人々はお腹が空く様になり1日3食食べる人が徐々に増えていったと言われています。
そこで不思議なのが、朝ごはんや夕ご飯はその家庭でまちまちだと思うのですが、お昼はなぜか12時前後になってしまいますよね。
多くの会社も「昼休み」として12時から13時までが食事を含めた休憩時間になっていますが、なぜそんな事になっているのかと言うと「人間の習慣」と「体内時計」が関係していると言われており、人間の集中できる時間は2時間ほどと言われていて、朝出勤し10時頃に1回休憩、2時間後には体内時計でお腹が空きお昼ご飯で休憩、3時におやつで休憩、5時過ぎには終了で帰宅し夕食、と言ったスケジュールになります。
二時間で集中力が低下し12時に食事、夕ご飯を食べて8時間睡眠と言った人類の生活習慣ですがここで疑問に思うのは「なんでこんなに区切られた時間と言う単位」なのかと言うところ。
2時間で刻んでいいんじゃないにかと思いますが、なぜ1日は24時間なんでしょう?
人類の基準は月と太陽が原点
時間の基準の一つは1日を分割した結果になると言う事です。
簡単に説明すると一日は「太陽が出て沈みまた太陽が出るまで」と言う事で、月が同じ位置(満月から次の満月)に来るにはそれを30回繰り返します。
これがひと月(30日)になり、太陽の登る位置が少しずつ移動し元の位置に戻ってくるのがそれを12回繰り返す360日で今の一年になっています。
これは私たちが生存している「太陽系」の中の「地球」だから当てはまっている事ですよね。
そこまでは理解しますが、「1日は24時間」のところが不思議でなりません。
いつから24時間になったのでしょう?
その起源はメソポタミアが発祥であると言う事で、「ひと月を12回繰り返すことで1年になる」ことから一日を12で分けていましたが、後に日が昇っている時を12,沈んでいる時を12で区切り1日は昼と夜の24で区切ったことが24時間の始まりだと言われています。
室町時代から江戸時代の頃の日本では、日の出と日没の時間を基準に、一日を12等分した干支の「十二時辰(じゅうにじしん)」を時間に当てると言う考え方をしていました。
一時(いっとき)は約2時間で半刻(はんとき)は約1時間、四半時(しはんとき)は約30分として認知されていたので、怪談話で出てくる「草木もねむる丑三つ時(うしみつどき)」は現代の時間に当てはめると「丑の刻は 午前 1時~午前 3時、四半時が三つ過ぎた時」と言う事から午前二時半ごろと言う事になります。
これでも十分じゃないかと思いますが、現代の社会は「分刻み」の時間に縛られています。
それが日本に入ってきた時期は明治の時代で、太陽暦が導入されたのを切欠に24時間制も同時に採用され始め、現代では30分刻みではなく1分刻みの生活に変わって行ったのです。
時間と歩む人生
人間は生まれた時は時間に縛られることはありません。
お腹が空いたら泣き、眠くなったら寝る、といった自然の行動だったのですが、思考するようになると何時に、起きて通園するのに何時に出なければならないか、ご飯は何時に食べるのか、就寝は何時かと言われているうちに、時間と言う観念を覚えていくと言われています。
何時に起きて何分までに駅に行き、出社時間に間に合うように何分発の電車に乗り、何時まで仕事をする。
正確な時間に統一された行動と、多くの時間に支配された社会に出ていく事になります。
細かく管理された社会の時間はあまり気に入っていませんが、良い事も生まれてきました。
それは競技でコンマ何秒を争う世界なのですが、その姿勢や頑張りには多くの人が感動を覚え、また子供たちもそれに向かって頑張る姿勢を学びます。
時間に管理された社会の中で生活する私たちですが、その中でも何気なく見ている競技の中の自分の時間を作り出す選手たちはとても素晴らしく時間と言う大切さを思い出させてくれます。
それが「何げなく過ごしている時間とは」と考える切欠になり「個々に与えられた時間はどれくらいなのか、いくら残っているのか」は誰にもわからないと言う事を改めて認識する機会になりました。
「明日やろう」「今度会いに行こう」 それは実現できないかもしれません。
この記事がやらなければいけない事、大切な人に合う事、そんな事を「出来るときに実行する為の切欠」になればいいんじゃないかと思っています。
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